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2022.05.09

ノスタルジーな空間に酔いしれて−古くて新しい機器たち−

近代文明機器コレクター 菅原和雄さん


「これはエジソン社のものです。この蓄音機との出会いが私のコレクター人生の始まりですね」と菅原和雄さん ※撮影時はマスクを外していただいています

「これはエジソン社のものです。この蓄音機との出会いが私のコレクター人生の始まりですね」と菅原和雄さん ※撮影時はマスクを外していただいています

どこでも音楽が聴ける・持ち運べる時代。音を収めたメディアで聴く元祖プレイヤーと言えば蓄音機であることを皆さんはご存知でしょうか。蓄音機が発明された時代に世界ではどんな技術が発展したのか?今回は近代文明機器コレクターの菅原和雄さんにその魅力について伺いました。

エジソンになることを夢見た少年時代

「小学生の頃は“エジソン以来の発明家になる”というのが私の目標でした。図書館に行ってはエジソンの伝記を夢中になって読んでいましたね」と少年のような笑顔で話はじめてくれた菅原さん。
ものづくりが大好きだった菅原少年は発明家になる夢を叶えるための第一歩として、小学校5年生の時に当時先端技術だった真空管ラジオを作ってみることにしたそうです。

「学校の図書館にあった“初歩のラジオ”という本を読みながら作り始めました。部品は故障して使えなくなったものを5円や10円で街のラジオ屋さんから譲ってもらって。それを組み合わせて作り始めたんです。なにせ古い部品を買ってきて作るわけですから、どれが故障しているかわからないんですよね。部品を取り替えたり、部品以外の部分をいじったりと試行錯誤しながら作っていきました。そうこうしているうちに2年近く経ったある日、鳴ったんですよ。1台の真空管ラジオが出来上がったんです」と、当時のことをまるで昨日のことのように目を輝かせて話す菅原さん。

その後、ラジオを作っているだけでは飽き足らなくなり、何か発明しようと思い立ちます。
そこで、使えなくなった蛍光灯をもう1度使えるようにできないだろうか、と考え発明を開始。試行錯誤を繰り返しているうちに見事成功し、「廃管利用の蛍光灯」として読売新聞社の日本学生科学賞に出品したところ、山形県審査で優秀賞を受賞したそうです。

100年前のアメリカ製のラジオ_1
100年前のアメリカ製のラジオ_2

今でも使えなくなった機器を修理するのは菅原さんの日課。「これは100年前のアメリカ製のラジオです。買った時は鳴りませんでしたが、修理したので今でも現役で使えますよ」と菅原さん

1台の蓄音機との運命の出会い

工業高校を卒業後、自分が発明したものを販売したいと考えた菅原さん。発明を続けられる基盤作りのため、一般企業に就職したのちに27歳で会社を立ち上げました。しかし、会社を立ち上げてみると事業経営が忙しくなり、発明には手がつかなくなったそうです。

忙しい日々を送る菅原さんでしたが、30年ほど前のある時、ふと立ち寄った楽器屋さんで人生を変えたと言っても過言ではないくらいの衝撃の出会いが訪れます。それは、黒くて大きいラッパのエジソン社製の蓄音機。
「びっくりしましたね。今でもこんなものがあるんだ!と。すぐに買取しました」この出会いが蓄音機を収集するきっかけとなったのです。

菅原さんに山形の楽器屋さんで運命の出会いをもたらした、エジソン社製の蓄音機。「これは1910年くらいのものです。動力はゼンマイ式ですね」

菅原さんに山形の楽器屋さんで運命の出会いをもたらした、エジソン社製の蓄音機。「これは1910年くらいのものです。動力はゼンマイ式ですね」

「せっかくなので聴いてみてください。100年前に吹き込まれた音ですよ」と菅原さん。音が吹き込まれた蝋管という媒体は永久的ではないので聴ける回数は決まっているそう。貴重な音色を聴かせていただきました!※読者の皆さんには録音した物でお届けします。100年前の音をぜひご視聴ください

「せっかくなので聴いてみてください。100年前に吹き込まれた音ですよ」と菅原さん。音が吹き込まれた蝋管という媒体は永久的ではないので聴ける回数は決まっているそう。貴重な音色を聴かせていただきました!※読者の皆さんには録音した物でお届けします。100年前の音をぜひご視聴ください

蓄音機をきっかけに収集し始めた近代文明機器

蓄音機を手にした菅原さんは、その後天童オルゴール博物館(現在は閉館)に蓄音機がコレクションされていることを知り早速見学に。すると、ますます興味がわいたそうです。
「私は音を聴くことも好きですが、その物が使われたり発明されたりした経緯の方にも関心があるので、蓄音機の歴史を追いかけるようになりましたね」と菅原さん。

調べていくうちに、蓄音機が作られた1877年から1900年前後はラジオ、飛行機、手回し計算機などが発明される“技術の開花期”だったことが判明。菅原さんの好奇心に一層と火がつき、ここから近代文明機器のコレクション生活がスタートします。
専門店やオークションなどで実際手にしているうちに、いつしか家の中には近代文明機器のコレクションでいっぱいになっていきました。

菅原さんの近代文明機器コレクション_1
菅原さんの近代文明機器コレクション_2
菅原さんの近代文明機器コレクション_1
菅原さんの近代文明機器コレクション_2

菅原さんの近代文明機器コレクションの一部。左上から時計回りに、スウェーデンオドナー製世界初の手回し計算機、ソニー製世界初のテープレコーダー、世界各国の手回しミシン、装飾を施された蓄音機この頃はインテリアの一部として楽しむ蓄音機のタイプも登場しました

菅原さんの近代文明機器コレクションの一部。上から、スウェーデンオドナー製世界初の手回し計算機、ソニー製世界初のテープレコーダー、世界各国の手回しミシン、装飾を施された蓄音機この頃はインテリアの一部として楽しむ蓄音機のタイプも登場しました

菅原さんが作成した近代文明機器の発展史。「これをみると、スマートフォンに全ての技術が入っていることがわかりますよ」と菅原さん

菅原さんが作成した近代文明機器の発展史。「これをみると、スマートフォンに全ての技術が入っていることがわかりますよ」と菅原さん(※画像クリックでPDFを表示

見て触って学んで。広く世界を見られる人に

数々の近代文明機器を収集してきた菅原さんですが、会社の勇退を機に自分で楽しむ分だけを残し、自らのコレクションを引き継いでくれるところがないかと考えはじめます。
そこで縁があり、寄贈先となったのが山形大学工学部キャンパス内に立つ国の重要文化財「旧米沢高等工学学校本館」。本館が建設されたのが1910年、日本の蓄音機が発売されたのが1910年と、決まるべくして決まったであろう場所でした。

寄贈したコレクションを通して学生さんたちには何を学んでほしいか菅原さんに尋ねてみたところ、「中国の故事に“温故知新”という言葉がありますよね。故(ふる)きを温(たず)ね新しきを知るという。工学部の学生さんたちは最先端の技術を学ばれているわけですが、その技術がどう発展して、またどういう技術とコラボして今に至ったのか、コレクションを通じて感じてもらいたいですね。そうすると、 “こっちのことを合わせると、もっとこうなるんじゃないか”と新しい発想が出てくると思うんです」と笑顔で答えてくださいました。

同本館記念館に収められたコレクションの一部_1
同本館記念館に収められたコレクションの一部_2
同本館記念館に収められたコレクションの一部_3
同本館記念館に収められたコレクションの一部_4
同本館記念館に収められたコレクションの一部_5
同本館記念館に収められたコレクションの一部_6

同本館記念館に収められたコレクションの一部。寄贈されたモノの中には、蓄音機の他にB29搭載送受信機や撮影機、電話機・交換機など産業革命以降の文明機器模型や現物が収められています(写真提供:菅原さん)

未来への架け橋となる時空の旅人に

これからの目標について話題が及ぶと、「今ここにあるモノたちは全て幾人かの手から私に渡ってきていると思います。今は自分が一時的に預かっているだけ。歴史がわかるように、全てセットで大事にしてくれる人が見つかればと思っています」と菅原さん。

「コレクションを集めている自分のことを“時空の旅人”と言ってます」と照れ笑いを見せます。
かつてエジソンになることを夢みた少年は、追いかけた夢の余韻を近代文明機器に囲まれて楽しんでいるようでした。

「日中は蓄音機の音を聴きながらコーヒーを飲んだり、壊れたものを修理しています」と菅原さん。部屋にあるものは、どれもこれも珍しいものばかりでした

「日中は蓄音機の音を聴きながらコーヒーを飲んだり、壊れたものを修理しています」と菅原さん。
部屋にあるものは、どれもこれも珍しいものばかりでした

近代文明機器コレクター 菅原和雄さん

山形県上山市

この記事を書いた人
たいこかいぎさん

たいこかいぎさん
Profile 山形会議キュレーター。上山市出身。お酒を愛するアマチュア打楽器奏者。広い人脈により、さまざまな調査能力に長けており、情報が早い。敬意を込め周囲は「記者」と呼ぶ。
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