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2021.09.10

明治から伝承されるおもてなしの心 守り伝える花柳界の担い手

山形芸妓 菊弥さん

かいぎさん

かつて紅花交易で大きな富と文化がもたらされた山形は商業都市として発展。その後、明治時代以降になると街の近代化とともに料亭文化・芸妓文化が花開きました。最盛期に“お座敷”を活躍の場とする芸妓は150名を数えたと言われています。
さらに1996年には伝統文化の保存・発展のため山形商工会議所や山形市観光協会が中心となり、市内企業の出資・協力と、山形芸妓置屋組合と共存する形で、「山形伝統芸能振興株式会社 (愛称:やまがた紅の会)」が会社組織として設立。多くの文人墨客に愛された山形芸妓文化を今に伝えています。今回は「やまがた舞子」一期生であり、現在は芸妓として活躍される菊弥さんに山形の芸妓文化の今についてお話を伺ってきました。

“舞子”との出会いと夢にかけた情熱

山形市内で生まれ育った菊弥さんが初めて芸妓文化に触れたのは幼稚園児のころ。テレビで京都の舞妓を見て憧れ、「中学を卒業したら京都へ行きたい」と考えるようになったと言います。しかし実際には両親の反対もあり県内の高校へ進学することに。そして卒業を迎えるころ、花柳界の文化を継承するために「やまがた紅の会」が設立されました。そこで両親も県内ならばと承諾し、菊弥さんは晴れて「やまがた舞子」の1期生となります。

「舞子になって早いうちから日本舞踊や唄、三味線など芸事を極めたいという気持ちが強くなっていきました。現在の山形では舞子・芸子そして芸妓と、年齢と芸の習熟度によって立場が異なります。いつかは芸妓に、という気持ちでお稽古に励みましたね」

舞子は文字通り“舞い”とお酌。芸子は唄や三味線。そしてこの二者が会社所属になるのに対し、芸妓は個人事業主として自分の裁量で活動することになるのだそう。

「京都では私のような芸妓を“自前さん”と呼ぶようです。山形でも昔は舞子を修行中の身として“半玉さん”と呼んでいたんですよ」

お稽古の様子。芸事に終点はなく、常に精進の毎日(写真提供:菊弥さん)

お稽古の様子。芸事に終点はなく、常に精進の毎日(写真提供:菊弥さん)

「全国で“舞子”にあてる漢字が違ったりしますが、どこでも“舞子”は華やかな振袖を着て、かつらをかぶって白塗りをして、お花のかんざしを着けてという姿になります。芸子と芸妓で見た目の違いはありませんが、芸妓になるには“名前”をもらわなければならないという点がありますね。踊りでも三味線でも、“名取”をひとつでもいただいていれば芸妓になることができます。私は日本舞踊のお師匠さんから藤間流の名取をいただいて芸妓になりました。他の御姐さん方も踊りであったり、三味線、鳴り物だったりと、名取を持っていらっしゃいます」

山形で伝承される“芸”

京都・東京をはじめ全国各地に芸妓文化は受け継がれており、その土地による特徴も育まれてきました。その中でも山形の芸妓文化は “芸”に秀でていると菊弥さんは語ります。

「祖母である小菊姐さんから聞いた話ですが、以前は全国花街芸妓合同公演“紅緑会”というものがあって、これは全国の芸者衆が一堂に会して芸を披露する場だったんです。そこで“蔵王”と“最上川”という斎藤茂吉の短歌につけた演目を披露して『山形の芸はすごい』と評判だったと聞きました。東京の清元の師匠が『山形の上杉節はこれからもずっと残していきなさい』と言ってくださったこともありました。“上杉節”と“蔵王”は私も継承していますし、これからも受け継いでいきたい大切な演目です」

※ 清元
浄瑠璃のうち最も新しい浄瑠璃であり文化・文政期の時代を反映した「粋」の芸術。
軽妙、洒脱が特徴で歌舞伎や舞踊音楽としで演奏される。

“蔵王”を披露する菊弥さん。(写真提供:菊弥さん)

“蔵王”を披露する菊弥さん。(写真提供:菊弥さん)

後継者の不足が心配されている、鳴物とも呼ばれる小鼓・大鼓(おおかわ)。演奏するのは舞子時代の菊弥さん。(写真提供:菊弥さん)

後継者の不足が心配されている、鳴物とも呼ばれる小鼓・大鼓(おおかわ)。演奏するのは舞子時代の菊弥さん。(写真提供:菊弥さん)

しゃんと背筋を伸ばしながら柔和な表情で語る菊弥さんに、ご自身の好きな演目を尋ねると少し照れながらこう答えます。
「私自身は男踊りと女踊りを交互に舞うものが好きなんですが、お客様からは『菊弥は男踊りの方が良いね』なんて言われます。大胆ではっきりした振付が私のキャラクターに合っているのかもしれませんね」

さらに続けた言葉の中には、運命めいたものを感じさせる、ある一致もありました。

「京都の“はんなり”にも憧れますが、東京の辰巳芸者の“粋”にもすごく惹かれるものがあって。聞けば辰巳芸者の起こりは江戸時代に活躍した“菊弥”という芸者さんらしいんです。偶然の一致ですが、すごく共感を感じてしまいますね」

山形の花柳界の灯を絶やさないために

見る人の心を掴む菊弥さんの舞いですが、近年はコロナ禍などで活躍の場が減っているとも語ります。

「山形にはかつてたくさんの料亭があったそうですが、時代の流れもあって少なくなる一方です。そんな中でも“お座敷”に呼んでいただいた時には、感謝の気持ちとおもてなしを尽くそうと。一人ひとりの心がけはもちろん、関係者全員が一丸になる必要があると思っています。全国的に後継者不足が叫ばれるなか、芸妓文化を継承していくためには従来のやり方や仕組みを考え直す必要があるかもしれません。私自身の芸もまだまだ磨いていかなければいけませんし、後進に伝えられることは残さず伝えていきたいと考えています。その先に、山形の花柳界の将来がひらけてくるのではないでしょうか」

心から山形の芸妓文化を残したいと考え、責任感をもって芸妓文化の今後を見据える菊弥さん。守るべき伝統と時代に合わせた柔軟さの両立で、山形の花柳界の将来を支えています。

プロフィール
山形芸妓 菊弥さん

山形市出身。「やまがた舞子」の1期生として8年間の活動を経て、2005年に県内では30年ぶりとなる芸妓に。山形の花柳界の担い手として活動し、後進の育成にも携わっている。

この記事を書いた人
おはなかいぎさん

おはなかいぎさん
Profile かいぎさんの中でいちばん自然を愛するキュレーター。土いじりのほかに、筋トレや映画にも精通している。最近の悩みは「自宅の周りを縄張りとする野良猫たちとの距離感」。
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