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2022.04.28会社員から作家に ボタニカルアートと共に生きる暮らし
有限会社杉崎ボタニカルアート工房 杉崎 紀世彦さん 文子さん ご夫妻
山形市内を一望できる工房の前で
「植物学的」という意味のボタニカル(botanical)が示すように、もともとは写真の無い時代、図鑑の挿絵として描かれていたというボタニカルアート。正確に、精密に、細密に描くそれは “植物の肖像画”といわれるほど写実的な絵ですが、杉崎ご夫妻の作品には香りや手ざわりなどの“実在”が感じられると評判です。
山形にも遅い春が訪れ、桜をはじめとする花々が開く頃。山形市門伝に素敵な工房を構え、日々の制作活動はもちろん、アート教室にも注力する杉崎ご夫妻にお話を伺ってきました。
熱意が引き寄せた人生の転機
杉崎ご夫妻とボタニカルアートとの出会いは30数年前。紀世彦さんが長年勤めた会社を辞めた頃に、七日町の八文字屋本店で目にした一枚のタンポポのボタニカルアートでした。
「なんて繊細で美しい絵だろうと感動して、それから何度も絵を見るためにお店へ通い、自分でもこんな絵が描けるようになりたいと思うようになりました。そんな折、新聞で『日本ボタニカルアート展』の記事を目にして、太田洋愛(ようあい)代表のお宅に電話をしたんです」
尊敬する太田洋愛氏の画集を見せてくれた杉崎ご夫妻。今も太田氏の絵に近づきたいとの思いで筆をとっています
「電話に出られたのは太田先生のご家族で、先生は弟子をとっていないとおっしゃいました。ですが熱意を伝えるうちに『本人に替わります』と言っていただけて。あの瞬間から私の人生とボタニカルアートが分かちがたいものになっていったのだと思います」
初めは絵の印象から、太田氏を女性だと思い込んでいたと笑う紀世彦さん。しかし“Y. Ohta”のサインは、「桜」の名手として知られる日本ボタニカルアートの巨星、太田洋愛氏によるものでした。紀世彦さんはこの一本の電話こそ、ご自身の人生における転換点だったと振り返ります。
野山で育まれた感受性と観察眼
一方で文子さんは、太田氏への師事を経て作家としての独立を決心した紀世彦さんを支えなければ、という思いがあったと笑顔で振り返ります。
万葉集に登場する植物を、というコンセプトで描いた一枚。文子さんの幼少期の思い出とも重なるカタクリ
「長井市で生まれ白鷹町で育った私のそばには、ずっと野山がありました。昔は薪ひろいや山菜採りなどは子どもの仕事でしたし、友達と遊ぶのにも野山を駆け回っていました。暮らしのすぐそばに森があって、どこにどんな木が生えているとか、その木の周りにはどんな花が咲いているとか、自然と記憶に残っていたんです」
「大人になってからも図鑑で、地元で『あめふりばな』と呼んでいた花の名前が『キクザキイチゲ』だと知ったり、植物をより深く知ることを楽しんでいました。もともと絵を描く事も好きだし、植物のことも紀世彦さんより知っているし。これは私も一緒にやらなくちゃって」
植物へのリスペクトを込め、ありのままを描く
「ごめんなさいね、ちょっといただくわね」樹に語りかけながらモデルを採集する文子さん
ご夫妻それぞれが描く作品を見ていると、作風には違いがあっても、やはりどこか共通する印象があるように感じられてきます。
「植物画に必要なのは、まずはしっかり観察することです。制作にあたっては『植物にならえ』という敬意をもって取り組んでいます。実際にその花が咲いている場所には、咲くための必然があると思うんです。種がその場所に落ちて、芽が出て、枝を伸ばして、蕾がやがて花になる。どんな光が当たって、どんな風が吹く場所に咲いているのか。太田先生が描いていた、そんな絵に近づきたいと思いながら描いています」
ありのままを描きとるため、花の構造を理解したうえで入念に観察します
文子さんがそう言うと、そんな絶え間ない努力は展示会で報われると紀世彦さんは続けます。
「ある展示会で、私が描いたブドウの絵の前で赤ちゃんが泣いていたんです。どうやら絵のブドウが食べたいとお母さんに訴えているようでした。普通にブドウを差し出しても、絵のでなきゃだめだと。そこで私が絵から取り出す真似をしてみると、喜んで食べてくれたことがありました。純真な赤ちゃんに食べたいと思ってもらえるブドウが描けたと、あれは嬉しかったですね」
他にも文子さんが描いた山百合の絵の香りを嗅ごうとした子どもの姿や、「絵から自然を感じる」といった来場者の言葉を、ご夫妻は大切な宝物のように語ってくれました。
サクランボの絵が紀世彦さんによるもの。お二人の作品をあしらったカレンダーやポストカード
感染対策を万全にした展示会と教室の運営
コロナ禍が始まってから近年の活動は、決して平坦なものではありませんでした。しかし、それによってアップデートできたものもあると紀世彦さんは語ります。
「感染対策のために展示会や講座のあり方も変わりました。特に教室ではたくさんの生徒さんが一つのテーブルに集まるので、密になってしまいます。これを克服するため、書画カメラと大型モニターを使った講座を始めました。県外の教室ではオンライン講座を導入しています。講師である文子さんの手元が見やすくなったので、かえって今まで以上の上達が見られる生徒さんも多いですよ」
大きさもその植物の特徴のひとつ。絵は基本的に原寸大で描きます
さらに2022年のゴールデンウィークには、およそ3年ぶりとなる展示会の開催が決定。同じく山形県内に在住するかご作家・落合なおさんとのコラボレーションに、喜びもひとしおです。自然の事物を素材にとった作品同士、お互いを引き立て合う展示になるだろうと胸が高鳴ります。
そこに植物があるように。見る人の心を癒す植物画
モデル採集でいつもお世話になっているという近所のお寺へ。生き生きと花が咲く、お気に入りの場所
暮らしのすぐそばに豊かな自然があることは山形ならでは。そして道端の花の美しさを知ることは、一見とても小さなことですが、気持ちの良い暮らしの極意が詰まっているのかもしれません。アートを楽しむためには平和であることが必要で、豊かな植生のためには共生が必要です。
人の目と手を通す分、写真よりも本物に見えるボタニカルアート。ここ山形で植物と人を愛する杉崎ご夫妻は、今日も見る人の心を癒す作品を制作しています。
展示会のお知らせ
2022年4月29日(金・祝)~5月5日(火)
10:00 am~17:00 pm※入館16:30 pmまで ※最終日は15:00 pm 閉館
入館料 ¥500(高校生以上)
場所:杉崎ボタニカルアート工房(山形市門伝山王1348)
コロナウイルス感染対策のためマスク着用のうえお越しください。
プロフィール
有限会社杉崎ボタニカルアート工房 杉崎 紀世彦さん
東京都出身。星野富弘氏、松本キミ子氏に私淑。ボタニカルアートを太田洋愛氏に師事する。日本植物画倶楽部会員。有限会社杉崎ボタニカルアート工房代表取締役。
杉崎 文子さん
山形県長井市出身。ボタニカルアートを太田洋愛氏に師事。夫である紀世彦さんとの2人展を国内外で多数開催。日本植物画倶楽部会員。杉崎ボタニカルアート美術館主宰。