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2024.07.12山形へ暮らしの安心・快適をもたらしたパイオニア
株式会社山形ビルサービス 代表取締役社長 與田貴博さん
社屋前にて。「創業者が困難を乗り越えて切り拓いたビルメンテナンス業もまもなく70年になります」と代表取締役社長の與田貴博さん
ビルや病院、商業施設を訪れると、清掃スタッフがいる光景が今では当たり前となっていますが、大型ビルが次々と建設された昭和30年頃の高度経済成長期の日本では、ビルや建物の清掃は“ビルの持ち主や従業員が自社ビルの掃除をする”のが当たり前でした。 そんな中、山形県内へいち早くビル清掃業を持ち込み、“ビルメンテナンス業”という事業を確立させた、株式会社山形ビルサービス(以下山形ビルサービス)。 今回は代表取締役社長與田貴博さんに、創業者がビル清掃業を軌道に乗せるまでの道のりと、次代をいくビルメンテナンス事業や地域貢献への取り組みなどについて伺いました。
ビル清掃業に可能性を見いだし、山形で開業
「創業者である博利(貴博さんのお父様、故人)は、福岡県柳川市で生まれ育ちました。 5人きょうだいの末っ子で、幼い頃に父親が他界し、母親の手で育てられたそうです。 貧しい農家でしたので経済的に苦しかったそうですが、父は“大学で学びたい”という思いが強く、兄に頼んで捻出してもらった学費と、奨学金を借りて中央大学経済学部に入学。 以来、アルバイトをしながら勉強に勤しんだそうです」
この学生時代のアルバイトが、のちに博利さんの人生を左右することになる「ビル清掃業」でした。
博利さんは、山形県出身の学友と一緒にアルバイトを続けるなかで「これからますますビルの建設が増えるなら地方でもビル清掃業は需要があるのでは」と、将来性を感じ「2人で山形で起業してみよう」となり、卒業後に2人で山形へ降り立つことになったのです。
(写真左)旅篭町の“さいとう美容室”さんの一室をお借りした最初の事務所。(写真右)創業当時の博利さん。(写真提供:株式会社山形ビルサービス)
(写真1枚目)旅篭町の“さいとう美容室”さんの一室をお借りした最初の事務所。(写真2枚目)創業当時の博利さん。(写真提供:株式会社山形ビルサービス)
縁が縁を結び、山形を代表する企業へ成長
事業を始めるにあたって、地縁のなかった博利さんは中央大学の山形OB会へ挨拶に行き、「大沼デパートの事務局長さんがOBだから会ってみてはどうか」と言われました。
「父は、すぐに大沼デパートへ挨拶に伺ったそうですが、すでに清掃要員もおり、その時は“聞き置く”ということで終わったそうです。その後も、飛び込みで県内のさまざまな企業へ営業に行ったのですが、当時の山形では自分の建物は自分で清掃をする時代。 当時東京でも認知度が低い事業であったこともあり、プロのクオリティがどのくらい素晴らしいのかもわかってもらえず、受注には結びつきませんでした。なんとか価値を知っていただこうと無料で掃除をしたこともあったそうですが、受注には結びつかない日々。 5ヶ月程経つと、とうとう資金が底をつき、コッペパン1つで1日を過ごさざるを得ない日々となったそうです」
博利さんは断腸の思いで、「山形で始めるのは早すぎた、地元に戻って就職しよう。」と山形を去る決断をしたと言います。 しかし、帰りの運賃もなかった博利さんは、何度か足を運んでいた大沼デパートへ赴き、帰りの切符代がないので、清掃道具を買ってほしいと大沼デパートの芦野事務局長にお願いをしました。
「とても図々しいお願いですよね(笑)。しかし、その行動があったからこそ、当社がここにあります。
父の言葉に対して芦野事務局長は、今一度社長に話をしてみようと言ってくださったそうです。1週間後にお伺いしたところ、いずれ清掃やビルの管理をまるごと業者に任せる時代がくるだろうから、やってみなさいと大沼八右衛門社長のお言葉が出たと言われ、一瞬耳を疑ったほどだったそうです。弊社の第一号のお客様であり、東北6県で初めてビルサービス業が誕生した瞬間でした」
第一号のお客様「大沼デパート」。ここからさまざまなビルとの契約が始まりました(写真提供:株式会社山形ビルサービス)
時代の追い風に乗り、ビル管理業として事業を拡大
その後、博利さんは清掃などの衛生部門の他に、24時間ビルを見守る警備部門などを取り入れ“ビルサービス業”へと事業を成長させていきました。
「父は、大学時代のアルバイトで、ビルを一貫して管理するにはどんなことが必要かを知っており、事業を拡大していきました。現在弊社では山形ビルサービスの他に、警備部門の『山形警備保障株式会社』、モップや玄関マット・じゅうたんクリーニングなどを扱う『株式会社東北レンタル』、環境衛生に関わる業務を行う『株式会社テトラス』といったグループ企業を設立し、総合ビルメンテナンス業として展開しております」
じゅうたんクリーニングや手術室の清掃などは、高度なノウハウが求められる業務。創業時から培ってきた技術が生かされます(写真提供:株式会社山形ビルサービス)
時代に合わせ、DXでより安心できるサービスの提供を
創業から42年経った1999年に博利さんは相談役に退き、1年後の2000年に山形ビルサービスへ入社した與田さんは、2012年に常務取締役を経て2019年に社長へと就任しました。與田さんは、時代の流れに合わせて、24時間遠隔でビルを行ったり、空調をコントロールするシステムを取り入れていきます。
「ビル(現地)で管理することは大前提となりますが、より安心して任せていただけるよう弊社のコントロールセンターにおいて24時間体制でモニター監視し、また、ネットワークの中で空調なども含めて管理することを可能にしました」
コントロールセンターでの管理風景。24時間体制でセキュリティ面も含めて安心して過ごせるよう管理しています(写真提供:株式会社山形ビルサービス)
創業者の思いを “未来を担う子どものために”
山形ビルサービスは、2013年に山形県内の高校生を対象に奨学金を給付する「一般財団法人與田教育財団」を設立しました。毎年県内の6高校の進学する学生に返済不要の給付型奨学金を給付しています。
「創業者である博利氏が設立したのですが、その経緯は『彼が苦学生であったこと』。この一言に尽きます。博利氏は、『学びたいけど、お金がなくて学べない人たちの力に少しでもなれば』とよく言っていました。会社を起業してからも、山形の地域の方々にたくさん助けられてここまで成長しました。そういったこともあり、地域に『御恩送り』がしたいという強い思いがあったようです」
これまで約250名が與田教育財団の奨学金で進学。奨学金を受け取った学生からは、「大学に進学し、この道に進みます」と明確なビジョンが定まっている手紙をいただくことが多いと言います。
大学を卒業後、どういう道に進んだのかを報告してくれる手紙が届いています(写真提供:株式会社山形ビルサービス)
“いつもの暮らしをいつまでも”をこれからも社員とともに守り抜いていく
「父は、創業時のエピソードの話になると“高度経済成長の真っただ中ということもあり、営業手腕の至らない者でも、一生懸命やれば認めてもらえるという時代の追い風にも助けられた”とよく言っていました。
その言葉には、父を支えてくれた方々への感謝の気持ちを強く感じていました。私もその遺志を受け継ぎ、働いてくれている社員とこれまで以上の安心・安全を届けていきたいと思っています」
大人数が利用するビルや商業施設、病院を安心して利用できているのは、“いつもの暮らしをいつまでも”を守ってくれるプロフェッショナル集団がいるから。
そして、ITが進化していくこの時代、これからも我々の変わらぬ生活を守ってくれる山形ビルサービスの未来に大きな期待を抱きました。
「若手社員と話す時は、世の中では何が流行っているのか、どんなことに興味を持っているのかをよく聞きます。世の中のトレンドがよくわかりますよ(笑)」と與田さん。仕事のことで相談された時は、相手の目線に合わせて答えることを心がけていると言います
プロフィール
株式会社山形ビルサービス 代表取締役社長 與田貴博さん
1975年生まれ、山形市出身。山形県立南高等学校から米国・サザンイリノイ大経済学部へ進学。卒業後、山形ビルサービスに入社。常務などを経て2019年5月から代表取締役社長に就任。一般財団法人與田教育財団理事。
勝負メシ 【楽しい食事の時間】
「食事は“何を食べるか”よりも、“誰と食べるか”ということを大事にしています。
幼少期の頃、遠足の時に友達と食べたおにぎりや、父親と一緒にスキー場で食べたおにぎりとか、“とてもおいしかった!”と記憶に残っているんです。
なので、大人になってからも“人”と楽しく食事をする時間を大事にしています」