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2022.11.22庄内浜と平野の「海の幸」、「山の幸」がマリアージュ。ローカルの宝が味わえる店
寿司・割烹 鈴政
大将 佐藤英俊さん
大将の仕事を物語る白身三貫。口に入れる前から「旨い」が伝わってきます(写真提供:鈴政)
ここは港町・酒田市日吉町にある一軒の寿司・割烹の店、鈴政。(山形会議にしてはちょっと背伸びしたテーマですが)大将の佐藤英俊さんにお店の歴史や愉しみ方、寿司文化についてお聞きしました。※撮影時のみマスクを外していただいております
北前船と花街。店と大将のルーツ
庄内空港より車で25分、JR酒田駅より車で5分の鈴政は、日和山公園近く日枝(ひえ)神社の麓に位置します。カウンター9席、小上がり20席のほかにお座敷もあります
「まいど~!いらっしゃ~い!」
引き戸に手をかけると、つけ場から聞こえてくる威勢のいい声。“回らない寿司屋”に入る瞬間、背筋がピンッとします。暖簾をくぐり、店に足を踏み入れたとき、大将と職人さんたちがテキパキと動く姿を見れば、すぐに人気店だとうなずけます。
鈴政の誕生は1955年(昭和30年)。現在の二代目大将である英俊さんの父であり創業者である正太郎さんは千葉県出身なんだとか。築地の鮪屋と寿司屋で働いていた経験から酒田で握ってほしいと声がかかり、その後に独立。「この業界一筋の父ですが『好きなことをやりなさい。寿司屋にこだわらなくていい』と昔から言っていました。兄は大学卒業後、会社員の道を選ぶことに。兄と5つ歳の離れた私は当時、高校2年生でした。この店を無くすのはもったいないと、職人の道を。昔ながらの常連さんに言わせると私は小さいとき、若い衆の配達に付いていっては『まいど~まいど~』と真似事をしていたそうで。『当時からお前が継ぐと思ってた』なんて言われることもあります。上京して7年間、日本橋の寿司・割烹「山新」で修行。あと3年は学ぼうというとき、父の体調を考え帰郷し、この道40年になります」
カウンター席のお客さまに話かける英俊さん。やさしい庄内弁が耳に心地よく響きます
料亭や寿司の文化が酒田に根付いたのは、やはり北前船の影響が大きかったという英俊さん。幼少時代はまだ、その賑わいの名残があったそうで、街のあちらこちらから三味線の音が聞こえていたんだとか。「昔の寿司屋は夜のみ営業。当時のお客さんは料亭のあと、寿司はシメとお土産用に重宝され、店は繁盛していました。両親が働いている間、芸者さんを束ねる組合である“見番(けんばん)”でお座敷を待つ、姐さんたちが幼い私の面倒を。おしろいの香りの中を走り回っていたといいます。25歳で酒田に戻ったとき聞いたんですが、その頃の姐さんから『ひで坊が泣ぎ止まねど、出ねおっぱいやるふりするとのう、泣ぎ止むんのもんだっけ』なんて言われたときは、顔が真っ赤になりましたよ」
県外出身のご両親にとって親戚がいない土地、お兄さんは一人で留守番できる年齢。その幼さゆえ街の人々に育てられた思い出がある“ひで坊”だからこそ、店を継ぐことで郷土に恩返しをしたかったのかもしれないと思うと、この街と鈴政の歴史は、切り離せないものだと感じずにはいられません。
まずはお通しでビールをグビリ。いくらの小丼、焼き物、そして蟹。素材のよさはもちろん、職人さんたちの熟練の目あってこその仕込みも一流。その美味しさで、緊張もほぐれていきます
醤油がいらない味の淡いものから、酸味のある〆もの、丹色の脂がのった味の濃いマグロ、甘い煮詰めの穴子の握り、そして巻物とテンポよくつけ台に提供されます。口に入れただけでとろけるとはまさにこのこと
交易や花街の影響はもちろん、庄内浜で水揚げされた魚と、庄内平野の米や農作物に恵まれた酒田の食文化。寿司はその権化のような気持ちさえしてきます。
「観光のお客さまにはこの土地柄ゆえに寿司というイメージはあると思います。東京麹町店の開店を決断したきっかけは“山形を知ってほしい”という理由です。お世話になった旦那衆の地元を思う気持ちに触れた影響も大きいです。首都圏の人に山形の味を知ってもらい、実際にこちらに足を運んで、寿司以外の食も堪能してほしい。この店がアンテナショップになればという思いで始めましたから」
前浜、庄内で水揚げされた魚を中心に全国の旨いものを
庄内で水揚げされたのどぐろと庄内浜産藻塩で焼き上げた「のどぐろの塩焼き」。脂がのったフワフワな身と、パリパリの皮。隅から隅まで美味しくいただけます(写真提供:鈴政)
「実は鈴政は“庄内直送”を謳っていません。もちろん基本は地物が売りではありますが、安定した仕入れが寿司屋にとって命。うちのマグロは冷凍を使っていません。江戸前に欠かせない小肌や穴子は豊洲から、無添加のウニは北海道や青森から。毎日30種ほど並ぶよう、全国から仕入れます。酒田でも、東京でも、ほかの店より朝早く魚河岸に向かいます。明日も石巻の港に行くんですよ」
ウニは身崩れを防ぐため、ミョウバンがたいてい使用されるといいます。英俊さんの熱意に根負けした遠方の業者さんが、産地外に無添加で輸送する工夫してくれたそう。海苔を巻かず握りで提供されるウニは、飲み込むのがもったいないほど、本来の甘さを愉しめます(写真提供:鈴政)
お店の愉しみ方について訊ねると、英俊さんはこう教えてくれました。「寿司屋はさらしの商売。気軽に聞いてもらうといいですよ。その時々で揚がる魚が違いますし。話しかけてもらえたら『今日はこれがおすすめ』だとか、合うお酒はどれだとか、食べ方もお伝えできますし。初めての方なら観光スポットや季節の果物などお伝えすることで、酒田をもっと知っていただけますからね」
だから鈴政のお客さんはみんな笑顔なんだ。そう、お寿司屋さんって私たちにとって、ご褒美だったりお祝いだったり、旅行でも大切な人と行きたいところ。大将と職人さんたちは、お客さまとのコミュニケーションの場づくりも大切にしています。
この日は、店名を冠した東北銘醸の初孫辛口酒をいただきました。地酒も好みを伝えて、おすすめを聞いてみて
鈴政に戦略はない。「旨かった」と言ってもらえるために
オーセンティックな酒田本店と異なり、今風な内装の東京麹町店のポスターが。なんと英俊さんのお兄さんのご子息も、現在職人として働いているんだとか
2018年、東京麹町店がオープンしたとたん、港町・酒田の味は大評判。「東京にしては安価な価格帯にしたので、お客さまの8割は『この金額でやっていけるの?』と心配してくださいました(笑)。儲けより、山形の味を知ってほしいが先でした。程なくしてコロナが蔓延し、お店を1カ月半、閉めた時期もあります。東京の職人たちとはリモートでたくさん話し合いました。『安全対策をしっかりしながらなんとか営業できないか』『漁業者支援と、お客さまの食卓が華やかになるようテイクアウトにクチボソガレイの焼き魚一品を付けるサービスがしたい』など苦しいときに知恵が生まれるんですね。危機を乗り越えた今はまた、予約がいっぱい。職人たちも仕事が面白くて仕方ないと思いますよ」
「温暖化や燃料の高騰、漁師さんの高齢化など、寿司屋や漁業を取り巻く環境の変化に対応していくのがこれからの課題です。昔ながらの労働環境も私の代で終わりにしたい。職人には休みには美味しいものを食べたり本を読んだりアンテナを張ってもらいたいんです。父がしてきたように、誰かにやらせるんじゃなく、自分たちでやりたいと思ってもらえるような店に。58歳のいま、若い職人たちが一本立ちできるように道をつくることが使命だと感じています」
サービス精神旺盛の大将が塩を振る姿すら、酒のアテに。東京と酒田を行き来する英俊さんに会いに、どちらにも顔を出す常連さんが多いというのも納得です
「引き際も大切。でも私は一生この業界から離れられないと思います」とほほ笑む英俊さん。18歳からこの世界に入り、店だけでなく酒田や寿司文化をずっと支え続けてきました。さて、この回遊魚のような大将、次はどんな荒波をくぐり、潮目を見定めていくのでしょうか。次に店の暖簾をくぐり、大将の笑顔を見るときは自分の稼ぎで親や後輩を連れてきたい。歳を取るのが愉しみになった、そんな取材でした。
プロフィール
鈴政大将・佐藤英俊(さとう・ひでとし)
1964年(昭和39年)9月18日、酒田市生まれ。酒田北高校(現・酒田光陵高校)卒業後に上京。東京日本橋茅場町「山新」で7年間修業し、25歳で帰郷。先代の父・正太郎さんと鈴政を支えた。先代の引退後、2018年に「株式会社鈴政」を設立し、代表取締役に。同年「東京麹町店」をオープンさせた