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2021.11.08県民が熱狂した甲子園 全国制覇を胸に次の夏へ
日本大学山形高等学校 野球部監督 荒木準也さん
日大山形総合運動場内 野球場にて。野球場と室内練習場があり、グラウンドには「めざせ全国制覇」のスローガンが掲げられています ※撮影時はマスクを外していただいております
新型コロナウイルスの影響による中止から1年。2年ぶりに開催された今年の夏の甲子園(第103回全国高校野球選手権大会)。山形県代表として甲子園の舞台に立った日本大学山形高等学校(以下、日大山形)の球児たちの姿に、心を熱くした皆さんも多いはず。その選手たちを育て、甲子園へと導いた日大山形野球部監督の荒木準也さんに、指導やチームづくり、チームが目指すこれからについて、お話をお聞きしました。
甲子園の舞台でも、泥くさいスタイル貫く
「見栄えも、人から見られることも気にするな。『熱く・泥くさく・粘り強い野球』をやるために、格好悪くても、体を張ってでも、アウトを一つ一つ重ねていこう」甲子園の開幕日、選手たちにこう呼びかけた荒木監督。
日大山形は開幕戦、米子東(鳥取)を4-1で下し、2回戦は浦和学院(埼玉)に4-3で競り勝って3回戦進出。石見智翠館(島根)戦ではサヨナラ負けを喫したものの、4強入りした2013年以来、8年ぶりの16強入りを果たしました。
「甲子園は自分の力以上を発揮できる舞台でもあり、自分の本当の力の半分以下しか出せないこともある。選手たちは泥くさく、粘り強く戦い抜いた」と荒木監督はいいます(山形新聞2021年8月11日、2021年8月22日)
8月上旬に同校出身の奥村展征選手(ヤクルト)・中野拓夢選手(阪神)から届いたというオリジナルの応援Tシャツ
大会を振り返り、荒木監督が語った言葉は悔しさをにじませながらも、選手たちの健闘を称えるものでした。
「僕の中では日本一を目指すという気持ちがありました。今の3年生は山形県の代表としてふさわしいチームだった。だからこそ、このチームだったらもっとやれた、もっと勝たせてやりたかったという思いも。ただ、昨年は夏の甲子園大会が中止になり、先輩たちが果たせなかった分、今年は何が何でも出場して、彼らの思いも伝えていきたいと思いました。ですから、選手たちの頑張りで甲子園の舞台に立たせてもらえたことに感謝しています」
コロナ禍、雨による順延、異例の甲子園
コロナ禍で開催された今大会は、無観客、取材もオンラインになるなど、例年とは違っていました。加えて雨による順延も重なり、選手たちはホテルの中で長期間を過ごしていたといいます。
外出も許されず、一試合ごとに行うPCR検査。「選手たちのストレスをすごく感じた。いつもなら勝利の翌日時間があれば、気晴らしに外へ連れて行ったりしていたが、それも今年はできなかったんです」と荒木監督。また雨でも室内練習場はほとんどおさえられないため、大阪のホテルから滋賀の友人のところへ1時間半ほどかけて、練習に行っていたとのこと。大会の裏側での苦労をうかがい知ることができました。
指導者として“人をつくる”
荒木監督は日大山形在学中、甲子園に出場。卒業後は東北福祉大学で日本一を経験、プリンスホテルで社会人野球を続け、自身も長年、野球選手として活躍してきました。日大山形の監督に就任したのは2002年のこと。
「監督のオファーをいただいたときは2回断りました。当時は家業を継いでいて、結婚して子どももいました。高校野球は土日に試合があり、家族との時間が減る不安から最初は反対されました。でも『やりたいんだったら、やったほうがいい』という親父の言葉が後押しになり、監督をやると決断しました。今では家族も日大山形のファンとして応援してくれています」
2013年には日大山形を甲子園で県勢最高成績のベスト4へ導き、プロ野球選手として活躍するヤクルトの奥村展征選手や、阪神の中野拓夢選手らを育て上げた荒木監督。普段の練習で大切にしていることを尋ねました。
県勢初4強入りを果たした2013年(山形新聞2013年8月20日)
「『熱く・泥くさく・粘り強い野球』を体現してもらいたい。熱がなかったらダメ。普段の練習から彼らの熱を求めるし、僕自身も熱がないとダメだと思っています。それから、『本気で取り組まなければ、本物はつかめない』と必ず言います。どんな練習の中でも本気度を上げない限りは自分には返ってこない。跳ね返ってくるものを求めたいので、だから練習でも本気でやることを大事にしていますね」
打撃練習では自らバッティングピッチャーに。ただ、監督が投げるのは主軸の選手だけ。ベスト4メンバーの奥村選手(ヤクルト)、中野選手(阪神)もずっと監督の球を打っていたのだそうです。
「バッター出身だからわかるんですが、バッティングピッチャーのコントロールが悪いとストライクゾーンが崩れる。先輩や主軸にバッティングピッチャーをするのは、やっぱり下級生だと緊張するんですよね。それだったら僕が投げます」
「日大山形野球部に来た選手たちは甲子園を目指したいという思いがあって来ている。だから、上手い子、下手な子、どちらにも同じように“ボロカス”怒ります。2年半で終わる高校野球。彼らに何かを残してあげられたら、それが成功体験として思い出にもなると思うんですよね」
シートノックを受ける順番は実力順。荒木監督がホワイトボードに、ポジションごとに一番目から調子の良い選手名を順番に掲示。それを見るとポジションで自分の実力がいま何番目かがわかるように。「僕がいなくなると、部屋に入ってきてボードを選手が見ているんです(笑)。先輩・後輩関係なく順番も入れ替わります。へこむことも多いでしょうけど、モチベーションにもなりますよね」
授業が終わってから、だいたい19時までが練習時間。その後、自主練習をして帰宅する選手も。土日は練習試合があるため、練習休みの月曜日以外、シーズン中は野球漬けの日々。とはいえ、学業や睡眠も彼らには大事なことと考えるのも荒木監督流です
指導者として誰かを目標としたり、相談したりすることがほとんどないという荒木監督。指導する上で大事にしているのは、選手時代に自ら得た経験だといいます。「監督の仕事は、ひとつは試合で勝たせること、2つ目は勝つためのチームをつくること、そして3つ目が人をつくること」。技術だけではダメで「結局は人をつくることなのだ」と。
選手たちにいつも話すのは「勝つためには心技体に、『知識』『運』を加えた5つの要素が必要」ということ。「運を味方につけるためにはどうすべきか。僕は予選を勝ち抜くにも、甲子園の舞台に立つにも、代表にふさわしいチームでなければダメだと思っています」。だからこそ、挨拶はもちろん、道具の扱い方、グラウンドの整備などに常に目を光らせ、「裏表があってはダメだ」と言い聞かせます。「そういった意味では今の3年生は代表にふさわしい、大人のチームに成長したと思いますね」
地元出身のメンバーで、県民に応援されるチームがつくれたら
他県から有力選手を集める学校も多い中、日大山形は山形出身の選手が多いのも特徴。そこには荒木監督のこだわりがあるといいます。
「僕は山形県出身で、大学は東北福祉大学に進んだのですが、仙台の大学なのに野球部にはほとんど関西人しかいなかったんです」。自己紹介で日大山形出身と言うと、“弱い山形”のイメージがついてまわった、と苦い経験を口にします。当時は全国との実力差が大きく、山形の代表チームが勝てない状況が続いていました。
「僕の場合は、東北福祉大学で当時の監督と出会ってからだいぶ変わりました」と荒木監督。大学2年生のときに日本一を経験。後にプロ野球選手になった5人と一緒にプレーしていたといいます
「日大山形で監督を引き受けたときに、できれば山形県人でチームをつくれたら最高だなと。県民の皆さんに応援されるようなチームを」
「もうひとつは、山形県出身の球児を育て、僕が入り口、出口の仕事をしなきゃいけないと思うんです。例えば、中学生をスカウトしてきて、高校で野球を教えて、さらに野球を続けたいという子には、出口として大学での野球を提供してあげる。僕が野球を教えた子がいろんなところで技術を磨いて知識を得て、山形に帰ってくる。今、阪神で活躍している中野も天童市出身なので、皆さんに応援していただいていますし、彼が実家に帰ってくることもあれば、母校に顔を出すこともある。そうしたことでつながっていけば、山形に還元することができると思うんですよね」
甲子園で勝つことで、野球をやりたいと思う子を増やしたい
甲子園で活躍する選手たちを見て、野球選手に憧れを抱いた子どもたちも多いはず。一方で、サッカー人気などに押され、野球人口が減っているという現状も。
「日大山形が甲子園に行って勝つことによって、なおかつ県人の身近な先輩たちが活躍することで、野球をやりたいと思う子が一人でも増えればいいなと思いますね」
「甲子園で他県の試合を見ていると面白いと思うことがあるんです」と荒木監督。関西の子どもたちが野球を見て、ピッチャーの球種だったり、戦術だったり、高度な会話をしていること。それは山形大会などでは見られないこと。関西の子どもたちは「小さい頃から高いレベルの野球を見る環境下にあるから、見て覚えている」のだと。だから、これから野球をやりたいと思う子どもたちには「野球を見る機会を増やしてほしい」と話します。
「僕は大学に選手を連れて行き、大学生とも練習試合をします。大学の球場で実際に見ると、走るスピードや守備のスピード、全部違うというのが実感として伝わるので。そうすることで、大学で野球を続けたいという子も増えました。山形県で大学野球、社会人野球がもっと活躍すれば、野球を続けたい高校生が増えるかもしれないですね」と期待を込めます。
新チーム始動。全国で戦える力を持ったチームに
夏の甲子園で3年生が引退すると、1・2年生の新チームがスタートする高校野球。今後の目標を伺いました。
「当然日本一を目指しています。ただ選手自身で目標設定をさせます。彼らにどこまでの思いがあるのかは本人次第です」
「日大山形は伝統も歴史もある。僕だけでなく、選手も背負うものは大きい」と荒木監督
甲子園が長引いたことで新チームの調整が県内の他校より遅れ、秋季山形県大会では結果を残せなかった日大山形。「対外試合が禁止され、練習試合もしないで本番に臨んだ大会だったので、場面場面でメンタルに左右されてしまうところがあった。起こり得ないエラーやアクシデントに対処することができなかった」と振り返ります。
選手たちには「しっかりと地に足をつけて、来年の夏までには微動だにしないメンタルをチームでつくり上げよう」と言っています。「必ず、夏までには全国で戦える力を持ったチームにして、県大会に臨むことが目標です。甲子園に行くだけでは面白くない、勝たないと。勝ってあの充実感、達成感の中で校歌を歌う」それを目指しているのだと。
荒木監督の熱く力強い言葉に共鳴して、きっと日大山形の選手たちも熱と強靭さをもったチームへと成長を遂げていくことでしょう。前を見据えて走り出した日大山形。来年の夏もまた、私たちの前で胸を熱くする戦いを繰り広げてくれるに違いありません。
お父様が指導者で小学校4年生から野球を始めた荒木監督。小学生のときは剣道、バスケットボールもやっていたのだそう。「スポーツを見るのが好きで、ラグビー、バスケットも鑑賞します。野球漫画も読むし、ラグビーの本もよく読みます。ラグビーのあの熱さが好きなんです」
プロフィール
日本大学山形高等学校 野球部監督 荒木準也さん
1971年、寒河江市生まれ。日大山形高で甲子園に出場。東北福祉大学では以前、阪神の監督を務めた金本知憲さんらとともに大学日本一を経験。卒業後はプリンスホテルの社会人野球で活躍した。2000年、プリンスホテル硬式野球部が廃部になると、実家に戻り家業の鋼材リサイクル会社へ。2002年、日大山形野球部の監督に就任。2013年に甲子園4強入りを果たす。苦手な食べ物は「人生で一度も食べたことがない」という梅干し。