work
2022.03.22旅館で醸すクラフトビールを主役に ここにしかない旅の過ごし方を提案
桜桃の花 湯坊いちらく 専務取締役 佐藤太一さん
いで湯のまち 天童にある「桜桃の花 湯坊いちらく」の旅館入口にて ※撮影時はマスクを外していただいております
クラフトビール工場「天童ブルワリー」、東京都内の飲食店「DAEDOKO」など、宿泊業を越えて多彩な事業を展開している山形県天童温泉「桜桃の花 湯坊いちらく(株式会社一樂荘。以下、いちらく)」。出身の大分県から山形県に移り、旅館の専務取締役として活躍する佐藤太一さんにいちらくの現在の取り組みやこれからについて、お話を伺いました。
九州から東北・山形へ。自衛官から温泉旅館の専務として
山形県のほぼ中央に位置する天童温泉。近代的なホテルから純和風旅館までさまざまなタイプが立ち並ぶ温泉街に、いちらくがあります。
大分県出身の佐藤さんが、遠く離れた山形の温泉旅館いちらくで働きはじめたのは今から6年前。前職の自衛官時代に、同旅館の長女である現在の奥様と出会い、結婚したことがきっかけでした。
自衛官時代は海上自衛隊で10年間勤務。その間2年間を小笠原諸島の硫黄島で過ごした経験も。携帯電話もネットも通じず、テレビも映らず、コンビニエンスストアも信号もない島での連絡手段は、手紙か国際電話だったといいます
「山形の田舎で小さな旅館をやっている」と奥様から話を聞いていた佐藤さん。いちらくに入社したら、東京の店舗や山形の旅館での仕事など夢の2拠点生活が送れると楽しいイメージを抱きながら、結婚の少し前に、初めて山形を訪れました。
「旅館の門をくぐり、アートギャラリーを目にした瞬間、その雰囲気に圧倒されてしまいました。すごく衝撃的で、それ以来、緊張してその後の2泊3日間はほとんど記憶がありません(笑)」と佐藤さん。そのときに「『本気を出さないといけない』と腹をくくりました」と忘れられない“いちらくデビュー”について語ります。
門をくぐった先には、山形県出身の彫刻家、松田重仁氏の作品が並ぶアートギャラリーが。作品のテーマは「浮遊する水」。非日常の空間が出迎えてくれます(写真提供:いちらく)
“好きなときに好きなだけ”を楽しむオールインクルーシブ
このコロナ禍で、旅館は2020年4月中旬から6月まで、丸2か月間営業できない期間があったといいます。「1953年の創業以来、いちらくは団体旅行に特化した旅館でした。それがコロナ禍で国内の団体旅行はもちろん、インバウンドも一人も来ない状況に。否応なしに個人旅行にシフトせざるを得なかったですね」
「日々、スタッフとミーティングを重ね、個人旅行をどう獲得していくか、いちらくにしかない特長は何かを改めて整理しました。そのときに、旅館直営のクラフトビール工場“天童ブルワリー”に着目。これを主軸にした新しいサービスを作ろうと始めたのが“オールインクルーシブ”です」
“オールインクルーシブ”とは、宿泊料金の中にあらゆる付帯サービスがインクルード(含むこと)された宿泊形態の一つ。「好きなときに好きなだけ天童ブルワリーの出来立てビールを」がいちらくのうたい文句。ビールだけでなく、天童の地酒やおつまみが自由に味わえるほか、大浴場や貸切風呂、朝食の後はヨガなど体験型商品もすべて含めたサービスです。
天童ブルワリーの出来立てビールを湯あがりに。体にじわーっとしみ渡る至福のとき(写真提供:いちらく)
岩、桧、陶器の3種類から選べる貸切風呂。貸切だからゆったり気ままに(写真提供:いちらく)
2020年6月から始めたこのサービスは、天童の温泉旅館では初の取り組み。山形県内でも数少ないといいます。
「お客様から本当に好評をいただいておりまして、リピーターになっていただいている方も。実際、緊急事態宣言やまん延防止等重点措置が発令されていない期間でいえば、コロナ禍前よりも業績が伸びている状況で、少しずつ手応えを感じています」
“湯あがりに、一杯”の発想が生んだ、温泉旅館で醸すクラフトビール
天童ブルワリーのような温泉旅館直営のブルワリーは珍しく、全国でも2軒だけ。もう1軒は、奇遇にも佐藤さんの故郷の大分県にあるとのこと。
「“湯あがりに、一杯”が天童ブルワリーのコンセプト。1999年の開設以来22年にわたり、旅館の館内でクラフトビールを醸造し続けています」
こだわりは“ラガー製法”。湯あがりなので、のどごしとキレが感じられるビールを意識しているといいます。
「天童の水質がラガービールに合っていることもあり、より美味しいビールを作るためにラガーにこだわっています」
2021年7月にはこれまで醸造してきたサクランボビールを改良し、さくらんぼの“佐藤錦”を贅沢に使用したフルーツビール「天使のさくらんぼ」を発売。
「ビールが苦手な女性でも飲みやすいよう、苦みを抑えたビールです。山形のフルーツを使って、スパークリングワインのように楽しめるビールを、と考え作ったのが“天使シリーズ”です。その第1弾が『天使のさくらんぼ』。この春以降は桃のビールや、新作もどんどん作っていきたいですね」
そして、もう一つ。創業当時からの定番商品「蕎麦ドライ」。「これはピルスナーという、ラガービールの中でも飲み口が良く、日本で最も親しまれているスタイル。まさに“湯あがりに、一杯”を具現化したような、本当にキレとのどごしを追求したビールです」。現在は白鷹産ホップを使ったドライビールの開発にも取り組んでいる佐藤さん。「ビール通好みの商品開発にも力を入れていきたい」と意欲的です。
2021年7月にリニューアルしたラベルは、“天童”の語源でもある“舞鶴山に天から童が舞い降りた”という伝説をモチーフにデザインされています(写真提供:いちらく)
伝統料理にひとひねり。東京でも山形の味を
いちらくは、山形で宿泊業を営むかたわら、東京・丸の内で山形のお酒とお料理が味わえるお店「DAEDOKO(ダエドコ)」を運営。“山形の食文化を発信したい”との想いから2011年5月にオープンしたお店で、ダエドコとは山形弁でいう“台所”のこと。
東京都丸の内の丸ビルにある「DAEDOKO(ダエドコ)」。「平日はビジネスマン、週末はカップルや女子会のお客様が利用されることが多いです」(写真提供:いちらく)
「もともと山形にある伝統的な料理をちょっとアレンジした料理がダエドコの面白いところ」と佐藤さん。おすすめメニューは、「玉こんにゃくのゴルゴンゾーラソース」、「秘伝豆のずんだコロッケ」。山形の味にひとひねり加えた料理は、絶妙なハーモニーを醸し出します。そして、山形の人が慣れ親しんでいる味とは少し違う、米沢牛や高級感のある食材を使った「芋煮」も看板商品です。
「こだわりは100%手作り、ほぼ100%山形県産の食材を使っているところです。都心にありながら、どこかいい意味で田舎らしさ、ほっこり感を味わっていただける、そんなお店づくりを心がけています。
山形の伝統料理を東京仕様にアレンジ。山形の方々にも味わってほしいメニューが並びます(写真提供:いちらく)
理想的な日常を体験する場所に
大分県ご出身の佐藤さんに山形の印象を尋ねると「人がすごく優しくて温かく、食べ物がとにかく美味しい」と微笑みます。「九州の人は私を含めて、比較的、楽観主義者が多いのですが、山形の方々と仕事をする中では、しっかりと計画を練ること。目の前のことに真摯に向き合う姿勢など、経営者として不可欠なことを学ばせていただいております」
仕事を通じ、山形の地で、山形の人々との関わりを深めてきた佐藤さんが今後目指すものとは―。
「コロナ禍で生活や働き方、ライフスタイルを見直す方が多くいらっしゃる中で、旅館に求められる形も変わってきています。それこそ、ワーケーションという新しい旅の形も。これまで “非日常やぜいたくを味わいに来る場所”であった温泉旅館。これからは “理想的な日常を体験しに来る場所”という側面があってもいいのではないかと思っているんです」
「今、私が注目しているのは “ライフスタイルホテル※”という業態です。 “ライフスタイルを味わうための場所”を提供するという意味で、オールインクルーシブもそれに向けた一つの手段」と佐藤さんは語ります。
「全く肩肘張らずに気軽に楽しみ、理想的な日常を垣間見ていただく旅館。そういったお客様と近い関係性の旅館になっていきたいですね」
※ライフスタイルホテル···デザイン性の高い空間と、宿泊にとどまらない付加価値をテーマとし、ホテル独自の仕掛けや楽しみ方を提供するホテル
別邸 桜桃庵の専用貸切風呂付きスイート。箱庭を望むお部屋はとても開放的で、時間を忘れてゆったりと過ごせそうです(写真提供:いちらく)
さらに、佐藤さんご自身の目標も。お父様の実家が漁師でお母様の実家が農家という佐藤さん。「一次産業、特に農業には非常に興味がありますし、宿泊業の持続可能なあり方を追求していくためには、農家さんとの関わりを密接にしていかないといけないだろうと。ただこの野菜が美味しいから旅館で使ってみようという関わり方でなく、例えば、ハウス一棟ごと借りて農家さんとコミュニケーションをとりながら一緒に料理を開発するといった試みも面白いですし、私自身、将来農業をやってみたいという思いもありますね」
2022年1月に天童ブルワリーは新たに3基の醸造用タンクを増設。醸造量をこれまでの約2倍に増やし、商品ラインナップを拡充していく予定。ブルワリーの工場長でもある佐藤さん。旅館の夜のラウンジではバーテンダーの顔も
湯あがりの一杯、その一杯を至福のひとときに誘う心地よい空間―。そんな日常の延長線上にある喜びが、いちらくには、たくさんあふれています。
プロフィール
桜桃の花 湯坊いちらく 専務取締役 佐藤太一さん
大分県大分市出身。高校卒業後、海上自衛隊に入隊し、29歳まで10年間勤務。2016年にいちらくに入社。東京・浜松町の「ワインの酒場。Di PUNT(ディプント)」の店長を経験し、2018年から旅館の専務取締役に。休日は職業柄、食べ歩きや、趣味の範囲で農業にも親しむなど熱心な勉強家。
勝負メシ 大久保そばの冬季限定「納豆入りとりそば」
「かなり太打ちの麺に親鶏、そこに納豆が入っているあったかいそばです。麺に納豆を入れる山形の“ひっぱりうどん”に最初は衝撃を受けたのですが、すっかりはまってしまいまして(笑)。大久保そばさんのとりそばは、麺を噛むのにすごくあごを使うのですが、山形らしくて美味しいし、元気になる感じがしますね」
大久保そば
山形県天童市天童中2-2-18